軌跡収拾曲の始点と終点


人の感覚はおぼろげ故に、徐々にそれを忘れてゆく。
人が人であろうともがく場所。
光の衣をまとい、華やかな一見とは裏腹に地道に行く末を見据えねばならぬ。
ここは、そんな空間の最果て―――。



地面と言い難いおぼろげな地を、低い姿勢で熱心に見入る男がここに一人。
疲労の滲む顔に、汗で湿り気を帯びたクセのある青緑色の髪が掛かる風情は、艶さえも感じる。
名は―――。
いや、ここでは名なぞ問題ない。
霧に包まれたかのような自我の自覚しか保てないここでは、それは意味を為さないばかりか、覚えてもいまい。
思い出せたところで……名前と云う一種の呪が幸にも不幸にもなる。
勇気ある者は、記憶の底を洗い出す努力をするが良い。
だが、ここに留まる位だ。名より固執している「何か」に捕らわれ、何者もそれだけを懸命に繰り返すのみ。
はて……、講釈はこれくらいにしよう。
どうやら、彼の元に来客のようだ。
傍らに佇むのは、肩より少しばかり足りぬ、桃色の髪の乙女。
男の熱心な作業ぶりに、声を掛けようか一瞬悩み、遠慮がちに音に変換する。
「何をしているのですか?」
「足跡を拾っているのだよ。記憶の欠片ともいえるかな」
男は地を探る手を止めるでもなく、視線を向けることすらしないまま、無機質な音を紡いだ。
一方乙女はその響きの中に、感じ入るものを嗅ぎつけた。
が、その感覚は刹那であった為に、答えを導き出せない苛立ちに身を置くことになった。
(もっと話をしなくちゃいけない!!)
ただただ直感が叫びを上げ続ける。
「あのっ!!もっとお話して下さいッ」
乙女の心からの叫びだった。それが知らず知らず必要以上の声量に繋がった。
男は変わらず地を見つめたままではあったが、瞳は少し見開かれた、と同時に色が宿ったかのように華やかさを増した。
「ごめんなさい、大きな声を上げて、驚かせた上、邪魔しちゃいましたね」
実に素直にお詫びを述べ、頭を下げかける乙女を制したのは、彼女に向けて開かれた、大きな男らしい手のひらだった。
手以外は変化のない態勢のまま、男は言う。
「驚いた。…あぁ…確かに驚いた。しかしそれは、声の大きさが問題ではないのだよ。いつもの幻かと思い、戯れに返事を返したのだが……、下らぬ質問攻めに合う幻聴とは明らかに違う―そう、意思の発する響きが月光のように優しく、だが確実に私を捕えたのだから」
遠くを見つめた眼差しで、ゆっくりと噛み締めるように呟いた思いが託された言葉は、琵琶の妙音にも似た美しい調べのようで、乙女は陶然と聞き入る。
お互いの中に満ちてくる、胸のざわめきと、安らぎを覚える相手の存在感。
今はまだ相手に伝わりきらぬほどの芽生えの段階ではあるけれども―。



思いをそれぞれにかみしめ、求めるものに一歩近づいたと云う核心に思案を巡らせていた二人に、柔らかな沈黙が周囲を満たす。
どれだけそうしていたのだろうか。
男はこれまでこだわり続けていた作業の手を我知らずの内に休め、他のものに気を砕いている自身に気付き、乙女に語るともなしに呟いた。
「足跡を拾わねばと思い続けていたのに……。時が残していったもの……。拾い集めていたかったのに、手がそれを忘れている」
男の瞳が再び色を失いかけているように見えた乙女は、
「私はっっ!!」
と叫びにも似た一声を上げるが、次の言葉を直ぐ繋ぐことは出来なかった。
その、言の葉にも、実にも結ぶ事の出来なかったと云う哀しみが、男の口を滑らかにした。
「私は私でありたい一心でここに導かれ、同じ作業を続けていたのだが……、君も同じなのかい!?―――君の軌跡が、ほらそこに」
男は乙女の足下を指差した。
「綺麗な桃色なのだね。愛らしい」
軌跡の色を褒められ、なぜか嬉しいくすぐったさと恥しさを感じた乙女は、頬を赤く染めた。
男はその様子に気付く事もなく、乙女の軌跡を辿り、離れた所で何かを拾い上げた。
光に包まれたそれが、さらさらと音を立てて手に掛かる様子は、神々しい美しさを連想させるほどだった。
「空蝉・・・・・・」
男はそう呟いて顔を曇らせた。
「君は、いや貴女は神が気紛れに私の元に降臨させた月の姫―天女なのだね。この衣を返せば去ってしまうのだろう?それとも、衣だけを残してここから去ってしまうのかもしれないね」
詠っているかのごとく一人言葉を紡ぐ様子に、響きが身体を心地良く通過していくのみで、乙女は反応できないでいた。
更に言葉は続けられた。
「そうして私はまた一人。同じ事の繰り返し。貴女のように綺麗な軌跡ではなく、点々と散在する私の足跡を探し、拾い集めるのだろう。延々と」
悲しみの交じった爆発しきれない怒りが身を駆ける様は痛々しかった。
大の男が体中で泣いているかのようにすら、乙女には見えたのだ。
そして乙女は思い返していた。
私にとって必要な人が、私を必要としてくれているからこの地に辿り着いたのだ、という事を。
それ以上の大切な事も徐々に認識し始めた。

だからこそ、問いたいことがある。

「彼方はここに縛られて、何を得ようとしているのですか?」

その問いかけに意義を感じ、返答しようと、男はざわついた心を静め、思いを正しく口にする事に集中し始めた。
「私は私でありたい。未来のアレは私ではない、繋げられたくもない。だからこそ私が私であるという実感を魂に刻みつける為に足跡を拾い続けている。…私の執念がここに縛りつけているのだろうか――。アレではない保とうと……」


ナ ン ノ タ メ ――――― !?



ここに着てから初めての疑問が男を襲った。
しかし、引っ掛かりは感じても確実な答えが解らない。
「区別しようとしているアレとは何ですかッ!?何のためにそれを望んでいるのですかッッ!!??」
乙女の悲鳴のような疑問が男に追い打ちをかける。
情けない事に、あおられた男は焦るばかりで、自身を保つ余裕などなく、
「わからない!!」
と八つ当たりのごとき怒声をぶつけた。
「違うんでしょう!?友雅さんッッ!!!」
信じ難い事だが少女らしいか細い声は、男の怒声に勝る勢いで響きを放った。
次いで頬に真珠の涙が零れ落ちる。
男は目を最大限に見開いていた。
その脳裏で神泉苑の水が飛沫をあげる。
それが近くの松葉の先に幾つもの水滴を作る。
神泉苑に現れた、龍神の泪のような雫。
その一点がポツリと落ち、地面に沁み込む。
地の潤いを感じながら、男は己の身にも沁み込んで来る物を受け取っていた。
自分自身であることに満たされていく喜びに身をゆだねていると、急に息苦しさを感じた。
意識の飛んでいる友雅を心配した少女が、ギュッとキツク体を抱き締めたからだ。
愛しいその少女を、瞳に映せる幸せに眼差しを温めながら
「あかね・・・・・・・・・」
と、名すら愛しみを覚えて大切に大切に唱える。
敏感に反応した少女は、涙で酷い顔になっているのも忘れ、直ぐに顔をあげた。
「彼」が己を捕まえたことを知ると、再び、彼の胸に顔を押し付け、衣を濡らした。
勿論、嬉し涙で、だ。
ひとしきり泣いて落ち着くと、あかねは言った。
「友雅さんは、足跡を拾わなくても、翡翠さんではなく、友雅さんです」
「あぁ…今なら判るよ。ここに居ることで自身を見失い、その内本当に固執していた事すら忘れ、挙句の果てに問題をすり替えていたという事にね。私は私でしかありえないんだよ」
日頃の余裕の笑みで語る仕草に、あかねは目を細くする。
「でも、忘れてしまうほどに、私は友雅さんに会いに来るのが遅くなってしまってたんですよね。ごめんなさい」
どんな状況にあろうと、大切な事を忘れてしまった私を責めればいいものを……と思う友雅には、あかねの懺悔に彼女らしい優しさを感じ、愛おしさを隠し切れずに抱き締めた。
姿勢を低くして抱き締めたために、ちょうどあかねの耳の高さになった友雅の口が囁く。
「私の執着はね『あかね』。私が私でありたいのは、あかねの為なのだよ。時空を越えても、共に歩むと決めた愛しい人。そこにこそ未来があるのだから。私も…とても大事な事をすっかり忘れるとは、流石に我ながらあきれるね。すまない…。貴女は衣を置き去りにしたり、衣を返すと去ってしまう天女ではなく、光の衣をまとい降臨する救いの神子殿なのに――」
それ以上思いを口にしきれない分をくちづけに託そうとするかのように、友雅はあかねに重なった。
その瞬間、二人の姿はこの空虚な空間から消えた。
柔らかい光の余韻だけを残して……。




企画も最終回を迎え、何か違う事をしよう。。。と言うことで、書いてみました。
或る時ふと思い浮かんだイメージをメモ……社員食堂でメモした覚えがありますが(;^△^)あはは…
それを元に、構想を広げ言葉を繋げていきました。
文章を書く事は意外と苦ではありません。
学生時代には、よく書いてましたし、読書感想文・詩や短歌が市・地区レベルですが、選ばれたり、小学生の頃に物語を書きとめていたり(説教くさいモノでしたが(・ω・;))、体験文の発表会にも代表に選ばれたり…もしたので、何かと書いてましたので。
体験文で綺麗に書きすぎたのか、嘘つき呼ばわりされてから、公にはあまり書かないようになりましたが、時折こうして文章にするのは楽しいです♪

しかし、ある意味時代物である「遙か」を、このような感覚的な世界観で書く辺り…逃げですね。
時代考証用史料など使う必要もなく、自分を高める気が感じられませんね…(反省)

2003年9月初旬作